つぶやき28
私にはまだ褒められたら嬉しいという感情がある
相手がどう思うかはわからないけど、自分はこう思う、こう感じる、と発言したことにおいて共感を得ると深い喜びを感じるのだが、すごいと言われると嬉しいという感情が起こっていることに気づいた
すごい と言われることによって、私は優れていると錯覚が起きる
その瞬間、誰もが同じ存在であるということを忘れていることに気付いた
ちょっとでも意識が内側に集中していないと、すぐに今までの習慣として同じ反応を繰り返していることにも気付いた
意識が今に集中していないとそうなりがちであると気付いた
その瞬間、自分が相手より優位に立ったと思い込む
なんだろう?
この感じは
相手より優位に立つことで成り立っていた時代もあるだろう
でも今は果たしてそうだろうか?
相手と私は同じエネルギーの存在だよね?
誰しもが同じエネルギーの存在で、一なるものの一部であるよね?
それをもっともっと感じる必要があるふ
今この瞬間に意識を集中して
自分の中の反応に意識を向けて
常にその反応と判断の選択肢を自分の責任で選ぶようにする
今までの習慣として、反応している場面があれば、いち早く気付くこと
何かができると、何かをやると、すごいねー!と褒められ育ってきた
私はそれを娘にもやっている
すごいね!と褒めれば娘も嬉しそうで、もっと色んなことを見せてくれるのだが、それがなかったらしないのだろうか?
すごいと言われたいからやるというのは捨てた
これをやってる自分はすごいという思いも捨てた
それでもすごいと言われたら嬉しいと感じるのはなぜ?
えっへん!と反応してしまうのはなぜ?
それが良いとか悪いとかではないのだが、愛のエネルギーとは違う気がするのだ
すごいでしょ?もっと愛して!もっと特別扱いして!
あーーーーーなんかそんな思いが隠れている
胸が痛い、、図星だ、、、
もっと特別扱いして!私は凄いのよ!
あなたとは違うのよ!もっと私に尽くしなさい!
あなたは私の言うことを聞いていれば良いの
その通りにやってたらいいの
文句は言わせないわ
あーーーーなんて傲慢なんだ
でもあれだな
逆に凄い人の意見には何も言えないし、その人の言うことは全て正しいと思ってしまっていた
そこに自分で考えるということさえせず、そのままそれを飲み込んでいた
これは何百年も何千年も続く中で身につけてきたものだ
でももう今は必要ない
それをもう理解した
次からはもう手放せる
次からは他の選択肢を選ぼう
誰もがみんな同じエネルギーで存在し、その中に誰が優れているもない
誰が劣っているもない