いつまで経っても欲しいものがなくならない、ことからの考察
いつまで経っても欲しいものがなくならない。
気に入ったものを手に入れると喜ぶが、それもいつしか飽きてしまう。
服だってそう、インテリアだってそう。
目に見えるもの、外的環境に関するものはなんだってそう。
結局そうやって、偽物の一時的な幸せを求め続けてしまう。
ふと冷静になると、今みたいに欲望や感情とは別の視点で感じている自分がいることに気付く。
これが内的探究の第一歩でもあり。
落ち着いているとこの感覚を長い間感じるので、あらゆることに深く気付くようになる。
そして自分が持っている不要な価値観や常識を崩して手放していくようになる。
こうやって私はどんどん自らを縛りつけていたものを解放していっている。
そしていつも思うのである。
結局二元性の枠の中で囚われている、と。
対象物が変わっていくだけで、未だそれを繰り返しているのである。
自分でも飽きないのかと思う。
が、思考や感情が自分だと同化しているとそれに全く気付かない。
冷静な目が持てないのだ。
思考が言葉となり、現実を創造する。
それは真実であり、それを上手く使うのであれば、私の今の思考を変えるのが一番手っ取り早いのである。
私は徐々に二元性の枠から解放されている。
私は徐々に一元の世界へと帰還している。
過去のことを繰り返し思い出すことになんら意味はない。
むしろそれを繰り返すことになり、有益なことにはならない。
毎日いくつもの記事を書く中で、以前はとか、前は、今までは、と色々書いてきたがもうそれは止めにする。
そこに意味はないからだ。
私が望む方向ではないからだ。
だからわざわざそこを見る必要はない。
そういえば思考が現実を創造する、ということの他に、私が最近意識していることがある。
それは思考は「ない」という言葉を判断できないということ。
だからいつも使う単語を自分が望むものだったり、好ましい、心地よいものを選んで話したり書いたりするようにしている。
外国語を話すことを想像するとわかりやすい。
詳しくない言語について、少しだけ話せる言語で聞き取りを行うとき、一番にわかる単語をキャッチするだろう。
そこに「ない」という意味の言葉が文の中にあったとしても、それは頭に入っていない。
それと同じことだ。
あと、好きではない言葉を使うとき、文字として表すとき、今もブログなんかで書くときは、ひらがなで書くようにしている。
なぜか。
漢字で書くと、ダイレクトにその意味を瞬時に感じ取ってしまうからである。
素敵とか、嬉しいとか、感動とかはその意味がダイレクトに感じることが望ましいと思うが、そうでない場合、例えば自分の感情をみだしたり、エネルギーをみだしたりするような言葉はひらがなだとダイレクトに感じるものが少なくなる。
そうやって、日々の自分のエネルギーを落ち着かせることが内的探究に意識を向けるために必要なことだと思っている。
とても静かで、周りの音もない、自分に集中することが容易な夜こそ、こういうことに意識が向きやすい。
こーゆー頭に浮かんだことを書き留めたくなる。
思いのままに書き出したくなる。
そしてこーゆーときは思考はほとんど眠るモード。
頭が働いていないけど、書きたいことはたくさんあって、どんどん浮かんでくるとゆーか、文字を打ちたくなるとゆーか。
流れのままに書いている感じで、内容を覚えていないこともある。
こーゆーとき、頭も身体も空っぽで、完全に休憩している感じがする。
私はそこにいないとゆーか。
そこまでの感覚に至ったのは今が初めて。
肉体の身体とも、思考とも、感情とも、私は違うのだ。
私はそのどれでもない。
私はただそこにある。ただそれだけ。